おかげの泉 第四号 昭和四十五年三月二十日 朝の御教話より

X神 訓 今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり

 一心に頼め、おかげは和賀心にありと、一心に様々な願い事がお互いございますから、やはり、一心に願わなければなりません。いわゆる一心不乱と申しますように、迷わず乱さず一心に願う、その願いに対して、それでは、こうゆうような心の状態になれよと、こうゆうような受け物を作れよと、教えておられるのが私はこの御教えだと思いますよね。
 私共が一心不乱に、例えば願うとか頼むとか、今月今日只今を祈り、願わなければおられない、言わば私達なのですから、一心に頼めと、だから、頼んだだけではいけない、一心に頼むという事が大事であると同時に、そのおかげを頂く為に、どうでも和賀心におかげはあるのだから、和賀心という受けものを、作れと、氏子の願いと神の願いが、ここに感じられます。
 私共は、一心に、只、神様に頼むもんのように、頼む、どうぞ々と言うて頼みます 御願いを致します。そこで、神様はそれに対して、おかげは和賀心にあるぞと教えておられます。
 和賀心にあるぞと、簡単に教えておられるけれども、実を言うたら、その和賀心が仲々、至難なもの、難しいもの、仲々、ちょっとやそっとの信心で和賀心が頂けるとは思えません。そこで私は、金光様の御信心はどこまでもやはり、おかげを頂いていく道だと思うのです。いわゆる御利益を頂いていく道だと思うのです。只、御利益を頂く信心ではなく、御利益を頂く道なのだ、そのおかげを頂いていく道を、私共は学ばなければいけん。只頼みさえすりゃ、願いさえすりゃ、おかげを頂くと、いうような日本人の、神様、仏様にたいするひとつの観念というのは、そんなもんだったんですねぇ。いわゆる片便の願い捨てというのは、その事です。只、苦しい時の神頼み、只、一生懸命頼むという事だった。それが、教祖の御出現によって、ここにおかげを頂く道を説かれた。
 そこでです、おかげを頂く道というものをです、私共が勉強をする、いわゆるここには信心の稽古に来る所とおっしゃるが、おかげを頂いていく道を、稽古する。その道はどこに出るかと言うと和賀心。焦点、目当てというのはそこなんです。和賀心、仲々難しい、和賀心になろうと思うても仲々なれん。けれども、そこには道があるから、道を行じていく。
 だから、この教典の全てがおかげを頂く、御利益を頂く道がしるされておるんだと言うてもいいと思うのです。
 最近は御利益とか、おかげとか言うと、低級な信心だというような事を言うて、まるきりおかげを渡しちゃいかんもののように、言う人達もありますけれども、おかげを頂く道なのですから、道を行ずる、道を習う、ですから、金光様の御信心はね、どうでも御利益を頂かにゃいかん、それを、道によって頂いていく。
 そこでです、そんなら、その道を行じさせて頂く事によって、和賀心に段々近寄らしてもらう、そこにね、ひとつの大発見がある訳なんです、私共がお願いがある、一心に願う、一心に頼む、そうすると、神様は次に、おかげは和賀心にあるぞとおっしゃる、私共の願いとは、神様の願いとがここにある訳です。
 そこで神様の願いであるところの和賀心を目指す道、おかげを頂く、御利益を頂けれる道を、あらゆる角度から、勉強する、それを、私は最近、和賀心学と申しております。勉強ですからね、やはり・・・・・、それは、医者には医学が必要であるように、やはり、栄養をとらなければ体がもてんと、いうので最近は、栄養学というものまで出来た位ですからねぇ。ですから心です、心がいよいよ豊かになる、いよいよ和らぐ、いよいよ賀ばせて頂けれる心を頂く為の学問があっておかしい事はないですねぇ。そこで、お互いが、和賀心学なるものを、日々こうやって、稽古させて頂いて、それはとりもなおさずそのままが、御利益につながる道なのです、おかげにつながる道なのだ、そうしてそこに、私が今日は「大発見」こう申しましたが、おかげを頂く為に一心にねがう、一心に願って、おかげは、和賀心にあるぞとおっしゃるから、その和賀心を求めて和賀心学を修めて、言うなら、御利益の頂けれる道を、それを信心て行じさせてもらい、生活の上にも、自分の考え片、思い方の上にも大転換をてきたして参りますねぇ、教えを頂きますと・・・第一ものの見方が全然変わってくる、考え方が変わってくる。
 昨夜は合楽会でございました。夕べ遅うに、高校の試験の発表は今日でしょう。
 だから、出来たという家には、先生方が夜中に回りなさるそうですねぇ、一刻でも早く喜ばしてやろうという事ですよ。いわゆる、一刻でも早う安心させてやりタいという親心でしょうねぇ。だから、先生、今日は、そんな訳ですから、合楽会だけれども行けないという人があった、それは、先生が夜中に来なさるのを待ってある訳なんです。なる程、自分が教えた子供が、試験に受かるか受からないか先生としても、大変な事でしょうけれども、まあ、言うならばです、あの手を打ち、この手を打ちして言うなら、出来ないよう所を無理して入れた所なんか特にそれが待ちどおしいのじゃないでしょうかねぇ。うちの子は頭が悪い、それでも手だけは打っといた。
 私はそうゆう風にですねぇ、例えば、子供の試験ならば試験の事もです、手を打って迄学校に入れなければならないという事は、いけない事ではなくて、もう大変なね私は、おかげのね、本当に人間が幸せになっていく事の為にです、大きな支障をきたす事になるのですよ、金迄使うてから入れた、そこに不自然があり、間違いがあるのです。だから、いかに成り行きを大事にしていかなければならないかという事がここでは和賀心学の第一として、私はこの事を説きます。成り行きを大事にしていけ、成り行きそのものが神様の働きなのだから、その神様の働きをまげて、賄賂使うてからでもして、入れようとするような生き方、それは間違いなんだ。
 それでも、結局親の面子にかけてでも、どうでもその有名校にいれなければならんという事は、それは子供が難儀になっていくのを、お導きするようなもの、人間の幸福というものを、ひとつも考えていない。有名校さえ出れば、子供が幸福のように思う、その心が、浅はかな人間の考えなのです。決して、そんな事じゃない、人間の幸福とゆうものは、学問じゃない、技術じゃない、そこんところを、説き明かしておられるのが、やはり教祖様なんです。
 人間の幸福というのは、和賀心にあるのだぞとその和賀心の上に立脚しての勉強であり、技術であり、全てがそれなのだ。
 私は、ここのところをです、和賀心という事、しかも、それは、おかげは和賀心にあるぞと、教えて下さる、だから、和賀心を求めての信心の稽古をさせて頂いておるうちにです、大発見と言うのはですね、そこのところの発見が出来るのです。
 例えば、一心不乱に願うておった、病気が治りますように、治りますようにと一心不乱に願うておった、願えは願う程、和賀心になれよ、和賀心になれよと和賀心になる事がおかげの受けものじゃと教えられるから、その和賀心になる事に一心不乱につめさせて頂き、勉強させて頂きよったら、これは病気だけではなかった人間の本当の幸福の基礎になるものは、これだったという、大発見がある。そこから、信心が、いよいよ輝かしいものになってくるのです。
 人間の浅い知恵やら、例えば、親の面子にかけてもとか、まるきりおかしな話なんだけど、・・・・子供が試験にできなかったら恥ずかしいと、そういう例えば考え方がです、信心させて頂きよると、なくなってくる。いやそれが、合格をしなかったと言うても、おかげを頂いて有難いという事になってくる。
 お願いをさせて頂いての事であるから、神様の御都合に違いないとして、それを頂いていくというような、生き方が、金光教の信心の生き方だと思うのです。そこからしか、人間の幸福、本当の幸せというものは生まれてこない。
 ですから、ひとつ本気ですね、和賀心を求めての信心、金光様の御信心はね、私がこう言うたら、もう、それこそ、顔真っ赤にして、怒る人達があるかも知れませんよ 金光教は、御利益を頂く為の信心ではないと言うでしょう。けども、決してそうじゃない。金光様の御信心こそ、生き生きとした御利益の頂ける信心であり、そういう道を教えるのだ。御利益と切りはずして、例えば、御利益を頂けない宗教は、もう宗教の値打ちがない。
 只今も申しますように、いわゆる御利益を頂かせて頂ける道を教えて下さる。その道の目当てと言うか、焦点は、和賀心であるという事。そんなら、和賀心にならなければ、御利益が頂けんのか、おかげが頂けんのかと言うのではなくて、そうだと分からしてもらうて、和賀心の方へ心を向けただけでおかげ頂くんですよ。金光様の御信心は、・・・・・。だから、和が一つでも賀が一つでも心の中に感じられるようになればもういよいよおかげはそれに伴うてくるものなんです。だから、日々、御教えを頂かねば、御理解を頂かねば分からないとゆう訳なんです。
 どうでもおかげを頂かなければ・・・・・私は皆さんに頂いてもらわなけれはならん、言わば訳があるのです。
 私は昨日、朝の御理解を皆さんに聞いて頂きよりましてですねぇ、別に感動的なそれでなかったけれども、もう途中で何回か声を上げて泣きたいような感じがするのですよ、昨日の御理解を皆さんに聞いてもらいながら・・・・・ようも、ここ二十年間とに角合楽ではです、おかげを渡しなさらん、それでも、ようもようも二十年間も皆さんが、まあ私を見捨てもせずについて来なさったという事、二十年間の為にです私が皆さんをここ迄引っ張ってきたか。
 そこにはです、確かに夢のようなおかげという事はなかったに致しましても、日々がです、もう今月今日がです、細々と言うなら、細い道でもです、そこに、草一本生やさない、おかげの世界がそこにあったからなんです。おかげの観点が違っておった まず家族が勢を揃えてです、神様のおかげで信心のおかげでと家庭が和になっていき、家庭中の者が喜ばせて頂けれるおかげをです頂かせて頂いて二十年間、けれどもね、ここでどうしても二十年たった今日です、皆さんの全部にね、言うなら今度はこれはね、私の心にだけしか分からないおかげですよね、二十年間を例えて言うと日々の立ち行きだけでも、不思議なおかげを頂いてきた、神様のおかげでと分かってきた神様の間違いなさを分かってきた。
 昨日、久留米の霊祭で終わった後に光橋先生が御挨拶しております中に、神様の一分一厘間違いのないお働きを分からして頂いて、いきよるけれども、やはり悲しい事は悲しい。苦しい事は苦しいと、こう言うております。
 それでそれは言葉の一つのあやでしょうけれども、私がお説教させて頂きました中で、その事について、申しました、それではいけない、悲しいけれども、苦しいけれども有難いとういう事にならにゃいかん、苦しゅうございます、苦しゅうございますけれども信心によるこういう有難さ、一分一厘の間違いなさを分からせて頂いて、有難いという時にはです、もう、その苦しいが消えていっておる、だから、本当言うたらでろねぇ、苦しいけれども有難いというのがです、言うなら、その苦しいという事すらも、無くなってこなければ駄目だと・・・・・。
 私が二十年間の私の信心を、昨日、改めて思わせられたんです。そして、私は苦しいけれども有難いとか悲しいけれども有難いとは言うてなかったという事。もう悲しいも、苦しいも言わずに、有難いと言うてきたという事です。それは第三者から見たら、さぞ苦しい事じゃろう、さぞ悲しい事じゃろうという事がありましたよ。ありましたけれどもです、私はそれを感じんで済んでおった事を昨日改めて感じさせて頂きました。
 信心というのはね、そういう例えば、道の教えというものは、そういう功徳を持っておるのです。教えが身に付いて参りますとね、暑かっても寒かっても暑い寒いを感じん程しになるという事です。言うならば。
 光橋先生が昨日言われたように、神様の一分一厘の間違いなさを、皆さんは見たり聞いたり、二十年間体験して来た訳なのです。けれども、やはり、苦しい事は苦しい悲しい事は悲しいけれども、神様の一分一厘間違いのない、というような事をです、今、私が三つに切って申しましたですね。
 苦しいけれども有難いという事になってきたり、いやもう、その苦しいとういう事すらが、なくなってくるという程しの有難さ、もう自分の歩いて来ておる道に、それこそ、草一本生やしていない、という事になります。そういう例えば、二十年間を繰り返し繰り返し進まして頂いた、体験さして頂いた、そして、ここにどうでもね、皆さんに私が言う、おかげです、いわゆる御利益なんです、そういう御利益の頂けれる道を、二十年間がかりで言うならば、稽古してみえりのですから、もうここでです、おかげを表していかなければならないはめになっているのです、現在の合楽は・・。 何故かって、今年私が皆さんに言っておるように、世界中のすみ々の人にです、この和賀心を説くなら分からんはずはない、どういう大宗教だと言うておる仏教だってキリスト教だってです、私の言う事なら、分からんはずはない、只おかげ々御利益御利益だけ言うておるなら、それはおかしいと言うかもしれんけれども、和賀心学を身に修めて、和賀心にならして頂く道を修めて、そこに現れてくるおかげはもう当然の事なのだ。だから、この和賀心学をひっさげて、世界の市場に出ようとこう言うのです。世界総助けのお役に立たせて頂こうという、言うなら、熱願に、私は、燃えておる訳なんです。教祖様の願い天地の親神様の願いもそこにあったんだ。
 そこでです、私は昨日、合楽の方達に申しましたが、その合楽教会の地元である合楽の皆さんが、本当に、信心を頂いて下さり、げを頂いて下さらなければね、私の場が無くなるのだ、働きの場が・・・・・。合楽教会が出来た、合楽の部落を見て下さい、皆さんがこのようにおかげを頂いておりますというように、その為のおかげの受けはじめを、皆さんが、たった何人かではあるけれども、本気でおかげを頂いて頂かなければいけないと言うたようにです、合楽に御神縁を頂いて、朝晩お参りになる皆さんがです、なる程、和賀心学というのを修めさせて頂いて、それを歩かせて頂いて二十年間そこには、草一本生やさんで済む程しの神様の一分一厘間違いなさを、体験させて頂きながらです、今日ここに至ったのであるから、そこに夢にも思わなかったというような、いわゆる御利益です願ってもいなかったという程しのいわゆる、輝かしいおかげというものがです、皆さんの一人々が頂いて下さらなければ、それを、ひとつの手本にして、見本にして、私は、世界の市場に乗り出さねばいけんのです。
 あなたの所はどうですかと言うたら、どうなりますか、お宅の御信者さんはどうですかと、はいこのようにおかげを受けとりますと、言えれるおかげを皆さんが受けて頂かなければならないはめになっておるという年なんだ、今年という年・・・・
 そういう事がですね、昨日の朝の御理解に、もう感動するまい感動するまいと抑えても、感動が止まらなかったのは、その事だったと思うのです。いよいよ御利益を頂かせて頂く時が来たと、おかげの夜明けだというようなものがです、私の心の上にいやが上にもそのように、有難いものにしたのだという風に感じます。
 ですから、本気で皆さんがおかげを受けて下さらなければね、私の言う事が空論になるのですよ。そして、私がおかげ頂いとったあれは、運がよかったのだろうという位になってしまうのですよ。
 けれども、ここ合楽に御神愛を頂いておる皆さんがおかげを頂いて下さるならそう運がよかったとだけは言われん。なる程、和賀心にはあのようにして、おかげが伴うのだというです、実証を皆さんがして下さらなければね、言わば私の言うならば、主義主張と言うか、私の持論であるところの、和賀心学というものを、世界のすみ々の地球上に住む人間の全てにです、和賀心学を修めてもらおう、覚えてもらおう、そしてそこにおかげを頂いてもらおう、そこに、神様の願いがあるんだと、私は確信するし、又、これならばです、どこのどういう理屈屋であろうがです、分からず屋であろうがです、ここんところを、こんこんと、おかげをひっさげて、説明したなら、分からん事はなかろうと、私は思うのです。
 教祖様はね、こういう風にもおっしゃっておられます。
「天ト地トドチラガ恩ガ大キイカ、恩比べヲシテミイ、天ノコトハ言ウナ、ナンボラ言ウテモ空論ヂャ天ハ父デ地ハ母ジャ、父母ガナケレバ子ガ出来ンガ子ガ産レレバ父ハ亡ウテモ、母ダケデモ、育ッテイク」とおっしゃっておられます。
 私、今日の御理解から、ここのところを抜粋させて頂いてです、素晴らしい事だなあと思うのです。天の恩と地の恩は、どちらが大きいか、天の事は言うなと、天の事は空論じゃとおっしゃってある。
 そこでです、例えば、子供は、夫婦がなからにゃ出来んけれどもです、例えば父親が死んでも子供は、母親がおれば育つという意味の御理解を下さってある。だから、天の事はね、天の事だけ言うのは空論だと、例えば私がです、どんなに素晴らしい事を皆さんに聞いて頂きましても、おかげが頂けなかったら、私の言う事が空論になるのです。皆さんがおかげを受けて下さらなかったら・・・・・
 けれども、おかげを頂く為にはです、二十年間という、和賀心学を修めて来ていわゆる今日、言うなら、大発見という言葉を使いましたが、そうだと、先生が言われるように本当に人間の幸福という、その幸福の基礎になるものは、和賀心であるという事です。皆さんが二十年間の間に、いやと言う程、言わば思い知らされてきた。
 ですから、その和賀心におかげの花が咲く言わば、今年という年柄は、もう、いろんな意味でです、今年という年は、そういう年だと。合楽にとってという意味ではなくてです、人間が言うならば、地球上の人間がです、月の世界にでも行けれる時代になったという事なんです。
 そしてそこに人間の幸福というものは、そういう、例えば科学万能とか、言うなら技術万能というだけでは人間の幸福というものはないのだと。心だ心だと言うように皆さんが言いだした。ところが、心だ心だと言うたところで、出来る事じゃありませんけれどれも、そこに和賀心というものがなからなければ、人間の幸福というものはありえないという事をです、まあ、実証された年だと思うのです。
 ですから、それを今度は、和賀心におかげが頂けるという実証をです、例えば合楽の皆さんが、なして下さらなければならない時ですから、そこでです、例えば、天の事を言うな天の事は空論じゃと言っておられます、例えば天というものはね、もう限りなく恵んで々恵み止まないもの、おかげは降るようにという事は、その事なんです これはだから言わんでもですね、天の事は言わんでも、天はもう、これは、世界中に氏子にです、もう恵んで々与え続けておるのですよ。
 それをです、例えば教祖は、おっしゃっておられるのです。天と、地とは、どちらが大事かと、天はもう、信心があろうが無かろうが、もう恵み続けておるもの、だから、人間はです、地の恩を知る、大地の恩を知る、そして、大地の心を知る、それがどういう事かと言うと、受けものなんです。大地の心を知るという事が受けものなんです。大地の心を知って、大地の心を我が心とするというところに、おかげの受けものが出来るから、神様がね、天地が恵んで々止まない、言わば降るようにあっておるおかげを、私共の大地の心をもって、それを受けとめていこうとゆうのである。
 その大地の心を、いよいよ分析してみますとです、様々になって参りましょうねぇ 大地は、黙って受けていくもの、いわゆる黙って受けていく辛抱強さと、そこのところを、ある場合には、「馬鹿と阿呆で道を開け」とも教えて下さる、どんなにいやなものを、持って来られてもです、それを、黙って受けぬいてゆくという事。
 そういう生き方がある訳です。そこから、又、生まれてくるものが和賀心なんです ですから、その大地の心を心とするというところに、金光様の御信心は、やはり、重点が置かれなければなりません。もう天の事は言うなとすら言うておられます。言わんでも、もう天の事は有難い事に決まっておる、与えて与えて止まないもの。
 天の恩と地の恩とどちらが大きいかと言うたなら、それは同じでしょう。けれども教祖はそこを分かりやすくです、どっちが大きいか考えてみると、こうおっしゃっておられる。なる程、天の事は空論なのだ、それは、素晴らしい事をです、私共が受けとめるのは、大地の信心、大地の心を心とした信心、そこから生まれてくる和賀心、その和賀心、和らぎ賀ぶ心をもってです、私共がおかげを受けとめていく、御利益を受けとめていく、そういう、道をです、お互い日々稽古をさせて頂いておる。とりわけ、昨日今日私が感じます事はです、これは皆さんのおかげ頂かれる、今迄はどう申しましょうか地の中に、根を下ろしたものがず-っと入っていきよる、二十年間とい言うなら、信心の稽古というものが、和賀心学の方は、一生懸命修めてきた。
 それがね、今年当たりから、発芽する、おかげの芽が出る、花が咲く、実が実るというところにですね、合楽の信心は突入しとおるのだと、ですから、本気で皆さんがおかげを頂こうという気にならにゃいかん。そこにです、油断なくという信心、今年は、そげな年柄。いよいよおかげを受けられるばいなあと言うて、腕こまねいておっただけじゃいけないのですよ。神様が下さろうとするなら、さあ、本気で頂こうぞという、いわゆる腰構えね、お互いが作らなければならない年だというのですよ。
 今月今日で一心に頼めばおかげは和賀心にあり、私共が、一心に願う、一心不乱に頼む、頼むと神様は、それに応えて、どう言うておられるかと言うと、さあ一心に頼んだだけでは出来んぞと、おかげは和賀心にあるのだぞと、和賀心を求めておられる そこで、そんなら和賀心にならせて頂く為には、どういう生き方になったらよいのか、精進させて頂いたらよいのかという事をです、言わばその検討をしていく為に教えがある。日々の・・・・教えの中からです、おかげを頂いていわゆるおかげを表していくというおかげ。同時に今日は皆さんにね、どうでも皆さんにおかげを受けてもらわなければ、私の願いとするところのですね、例えば、和賀心学をひっさげて、世界の市場に出してもです、こんなに素晴らしいものですよと、このおかげの事実を見て下さいと、いうものがなかったら、それは空論にしかすぎない事になるのですから私の言うておる事がです、本当にそうだと、世界のすみ々の人にでも分かってもらう為にも、まあ、少し大きな事を言うようですけれども、そういう事が実際は千年先に万年先に、なるか分からんのですけれど、まず私共は、そういうおかげをね、言わば表していかなければならない。
 それは、いよいよ世のお役に立たせて頂く為にも、私共がね、おかげを受けて、これを見て下さいという、おかげを、言わば示していく、表していくおかげを受けなければならんと思うのでございます。
            どうぞ。